箱男も想像しなかった未来

 テレビが映画を衰退に追い込んだように、今度は動画サイトがテレビを衰退に追い込んで、とうとう映画はあおりをくらって絶滅するんじゃないか。戦前から「活動狂い」があったように、高度成長期以後は「テレビの見すぎ」世代が台頭し、いまやワンセグの時代になろうとしている。

 なんとはなしの予感にみちびかれて、安部公房箱男」を再読したが、その冷え冷えとした世界観は現在を予言しているというにふさわしい。

 最後に言及される「箱の内側にかきつける余白」というのは、いまや電脳空間として現出している。いわずもがなの注釈をすると、書くからには読み手を想定していて、その記述が外から読まれることのない「箱の内側」にされることが、当時は文学的に意義のある仕掛けだったのだ。いまやネットの文章が、誰も読んでいないけれど誰でも読めるものとして、安部の空想を実現している。

 最初から活字として匿名者の感傷が垂れ流される時代が来るなど、1973年の安部公房は想像もしえなかったに違いない。安部の死去はインターネットが大衆化する直前の1993年だった。