世界を知っている、という「フィクション」

 「恋空」のミカというのは、観客にとっては、共感する対象であって、とくにモデル(手本)というわけではない。だから、ミカのように勉強して慶應(とおぼしき大学)へ行こうとか、観客はべつにそういうふうには思わない。観客にたいして、作者は本質であるようなモデルを提示するのではなく、あるケースとしての状況を提示して、観客はそれを見て泣く。

 ミカの父親が事業をしていて、それが上手くいかなくて、事業を手放す。そのことは観客に伝えられるのだが、いったい、その父親の事業がどんなものであるのか、それは観客には伝えられない。ミカのキャラクター造形として、旧来の作劇術ではかならず書き込まれていたこういうポイントがまったくぼかされているのは、つまりは、作り手が必要ないと判断したからだ。

 現代日本にすむ「私」は、べつにセルバンテスとも、カフカとも、クンデラとも関係がない。だから、みずからの表現が世界文学の視線を意識することはナンセンスだと、日本の若い作家たちは思っている。読者は、クンデラのことなど知りもしないのだから、作家は、クンデラを読んでなければ理解が及ばないような構成の複雑さを追及したりして、読者を困惑させる必要はない。かえって邪魔なくらいなのである。

 小説というジャンルは、テレビ時代以前の記憶や伝統のしっぽをいまだに引きずっているから、うかつな作家は、つい、あたらしい作品を自立させるために、小説のなかに伝統を引き込んで、小説外の伝統に対置させようとする。つい、テレビがなくても自立しうるような主人公を造形してしまう。1924年生まれの安部公房は、べつにうかつな作家ではなかったが、しかし時代の制約からは逃れられなくて、「箱男」の主人公や、「箱舟さくら丸」の「もぐら」は、テレビいらずの人間たちであった。1970年代や、1980年代は、そういう時代だったのである。

 そういえばわたしたちが世界を知っているなどというのは、テレビ時代の壮大なフィクションであった。世界など、わたしたちは知りもしない。ただテレビの画面を、ネットに繋がったPCのモニタを、眺めているだけであった。

 近代程度の情報化社会では、名をあげることこそが主題であったから、キャラクターを「造形」したのである。しかし、現代の情報化社会は、徳川家光ではないが、人は生まれながらにして個人なのである。だから、必要なのは、名をあげることではなくて、自己の属性を選択的に出し入れすること、コントロールすること、フィルタリングすることなのだ。

 映画版の「恋空」で(とわざわざ断るのは原作を読んでいないからなのだが)、ミカがヒロの死をケータイのテレビ電話機能で看取るシーンがあって、わたしはなかなか驚いたのだが。情報化社会は確実に新局面を迎えていると。