猫猫先生すみません

メールのチェックを忘れていました。

でメールを拝見しましたが、ちょうど御本の32ページあたりのことですよね。

だが、遺族は被害者の代弁者たりうるのだろうか? たとえば私なら、娘も息子もいないけれど、仮にいたとしても、野坂のようには言わないだろう。自分がもし不条理に殺されたら、その犯人を死刑にしてほしい、と言う。仮に私に「遺族」がいたとして、それがイエーガーのように、加害者を許す、などと言われたら、たまらん、と思う。


これはよくよく正直な感想だなあと読みましたけれど、しかし、これ、やはり読者はギョッとしますよ。正直すぎ。野坂のように言いましょうよ・・・。

海外では銃の所持が容易なところでは復讐はよくあるみたい。それはここでもちらっと触れたとおり→http://d.hatena.ne.jp/mailinglist/20080207/p1

まあ、私は先生に反対というわけではないんですよね。私が物を考えるうえで、死というファクターを抜いてしまいたいという個人的動機があるからゴチョゴチョ言ってるだけで。復讐を否定するのは結局は宗教的根拠しかないわけで、先生を転向させることは、理屈だけでは不可能だと思います。逆に言えば私だって転向しないけど。

「いじめの記憶は存在しない」論の伝で言えば、人の死なんて、物理的にいったら肉体の崩壊と消滅の過程でしかないのだから(生もまた不可逆な過程だと養老孟司は言う「死ぬという瞬間はない」『カミとヒトの解剖学』(法蔵館ちくま学芸文庫))、死者の声を聞けなんていう西部邁の議論は宗教的な言明でしかない。そして、私は、だからそういう意見は尊重しない、のではなくて、もちろん、宗教的な話のレベルでは尊重するんですよ。

だから、意見としては、人間の思考というのが、おおくは宗教的な非合理な情熱に支えられていることを、もういちど言葉のレベルで見えるように、聞けるようにしておくべきではないか、というのがある。もちろんこれは先生に宛てたものではなくて、このブログの読者に考えてほしいことなのですが。

日本人は無宗教、そんなわけねーだろーが、と思うのです。小林よしのりが、「俺だけは真ん中とか言って中立を装うやつら」を憎む気持ちには、強烈に共感する。




そういう基準で拘禁していたら、国民の五割くらいが拘禁されてしまうわけだが、それをどうやって管理するのだろう。

これはやはり「マイノリティ・リポート」をご覧いただくしかない。「非現実的」なSF映画なわけですが。なにが非現実的で、なにが現実的なのか、というのは、結局はやる気の問題なんじゃないのと思うのですが・・・。

あとは「マトリックス」3部作ですかね。人類と機械との関係は、前者が後者を使役するか、敵対するというのが、それこそ夏目漱石から「ターミネーター」のジェームズ・キャメロンまで一貫した思潮だったわけですが、ウォシャウスキー兄弟はハリウッド映画史上はじめて機械と和解する人類という方向を提示したわけで。

そして、機械がなくては夜も明けない状況というのは、これ、SFでもなんでもない、いまの現実の状態の素直な表現なわけです。かえって、それまでの映画、SF映画が現実を認めていないだけに過ぎなかった。

拘禁にかわる代案としては、ぐっとしょぼくなってしまうが、今先生がやられているように、ネットで告発するというのがあるんじゃないでしょうか。対象者が、「書かれてたじゃな〜い」と言われることによって身を慎むことが・・・、あるような気がするんですよね・・・。

また「勇気ある卑怯」のすすめになってしまいますが、あやしいやつに近づかないというのは、パッシブな拘禁なんじゃないかとも思うんですね。しかし、こちらが相手に出会う前から、先方がこちらを嫉視していたら(「童貞放浪記」)、これは難しい問題ですね・・・。マイノリティ・リポートの超能力者プリコグを募集するしかないか・・・。