強欲で社会が良くなったという経験が「善くあれば良し」という思想を強襲する

強欲をうまく位置づけられないというのが、近代思想のいちばんの難関なのかもしれない。個室にこもってしまえば、強欲の醜さは見えなくなってしまう。共同便所しかない時代には、トイレに死体を流すことはできなかった(そういう時代にはしかしリンチが横行していたのだろうが)。

強欲はいけないと戒めてきたのに、強欲を解放してみたら、なんだか上手く行ってしまったような気がした。この当惑が、現代人の思想のベースにあって、そうではないよとして出てきたのが、『沈黙の春』みたいな60年代からのエコロジー思想なわけだ。

いまはだから、義務としての普遍、世界の全てを監視することができるか、という問いに、先進国の人々が熱中している段階にある。『ボーン・アルティメイタム』なんかも、そういう関心を題材の一部に採っていた。

下々の人間もメールやネットで、監視する欲求を存分に発揮している。情報を伝えるなら、電話で「直接」相手に声をかけるのが確実じゃないかと私には思えるのだが、声は、普遍ではないのである。オッサンが周囲を憚らぬ胴間声でケータイにがなるのを見て、私は迷惑だなんて思わない。ああ、古俗が息づいてるなあと、ホッとするのだ。