秋葉原の通り魔、形式化、恋愛

武器を買いに、他県である福井に行くとか、単に迷彩服ではなくて自衛隊の制服を欲しがったとか、形式化への欲求が散見される。

まあ、それがオタクなのだと言ってしまえば、それまでなのだが、形式化への手順を踏む階梯において他人が犠牲に供される、…まるで人類の歴史の、極小の模倣といおうか。

さてさて。

私は、言葉とか他人とかを、徹底的に信じていないのだが、そしてだからこそ、映画という約束事が好きなわけで、つまり、脳そのものは好きなのだが、脳の出力物自体にはあまり愛着がないということだが(私は、役者の名前とか、ぜんぜん覚えられない)、そういう私の性向は、日本人としてはマイノリティーの部類だろうと自覚しているが、まあ、恋愛とかも信じていなくて、自分の性欲は自分にとっては実在だから、他人の迷惑にならんようにちょぼちょぼ処理しなくちゃなあとは思うが、「自分はこうだから」と勝手に自己を形式化するやつは嫌いなのである。

より形式化された文明が高等であるとするドクサが西洋にあって、日本もそれに追随していて、私は「ウソつけ」と思っているのである。各地の原始宗教よりもカトリック教会のほうがさらに卓越している。そんなの、ウソつけ、である。

私みたいに、自分の性欲をもてあまして、その位置づけにああだこうだと思案をめぐらしていた男にとって、恋愛というのは、ぜんぜん性欲の解決にならない、というか、別の問題系が出てきてしまうではないか、と思うのだ…。

要するに、他人の体に触れるなんて、ばっちーじゃないか、という感性。これは濃度の個人差はあれ、人類普遍の感性であって、現代はそのことを言わなさ過ぎるのである。

しかし…。

だから恋愛というものに興味がなかった私だが、しかし、いろいろわかってきたのだが、恋愛というのは、「周囲」と「私」との関係を形式化するゲームなのだね。そう考えると、腑におちる。いい会社に入りたい、というのと、いい恋愛をしたいというのは、まったく同じことなのだ。

なるほどね〜、である。私がボーっとして生きている間、みんな、そんな面白いゲームに興じていたのか、と認識を新たにしたのである。

私は病的なほど協調性が欠如していて、貧乏暮らしを余儀なくされているが、しかし、自分の決断の結果だからしょーがねーな、とわりと淡々としているが、しかし、集団に参加したくて参加したくてたまらない人格が、就職からも、恋愛からも疎外されてしまえば、そりゃー自棄のひとつも起こすかもしれないな、と、わりとフツーに思うわけである。