なぜ

平明な水面のような日常に、どぼんと大きな石が投げ込まれて、周囲に渦やら波紋やらが立って、そのあとに浮かび上がる泡のような、「なぜ」。その問いは、必然であって、実は、自発性を欠いている。自然現象でしかない、自分という限りあるいのちが、知らずしらずのうちに、ふとこぼす泡のようなつぶやき。

わたしの中に波紋がひろがり、半年も消えない。わたしという水は、泡を押さえこむことを自発性であると心得ているかのように、不可思議な圧力を、水圧にさらに添える。言及しないことこそが、私たちの、水のように透明な倫理であるかと心得ているかのように。

しかし、泡をうかべてあげたほうがいいのかもしれない。私という水から、空気中へ、空へ、大気へ、泡と見えたかつての空気、あるいは大気の欠片を。

わたしを形作ってくれた大気に、その一部を返してあげるべきなのかもしれない。わたしという水面下の水中という環境、それは個室のような風通しのなさ、よどんだ観念の滞留をひきうけている。

投げ込まれた石を、崇めるのも、忌避することも誤っていて、わたしたちは、わたしたちという平明な水面と、よどんだ底と、この相貌をもつわたしたちは、大気へと帰っていった、かつての泡を忘れない。