後ろ向きな映画の擁護

リチャード・ドーキンスが、『神は妄想である』のおわりのほうで、無神論者の私がとまどうほどに若者のキリスト教離れが進んでいる、と述懐していて、宗教離れの功罪の罪のほうとして、文学への理解が行き届かなくなる可能性を指摘していたけれど、なに、文学なんか神以上に妄想なのだから…。

映画というのは、映像と音声で構成されているから、下手な人がつくると「見てられない」けれど、物語を信じなくても、宗教を信じなくても、道徳を信じなくても、たとえひまつぶしであっても付き合うことができる、科学の時代が生んだ稀有なメディアなのだ。

音楽は、BGMとして流しておくことはできるけれど、ひまつぶしに聴くということはできない、というか、困難である(聴けているというのは、多少なりとも乗っているのだから)。ひまつぶしに読む小説というのは、こちらはわりに多いが、時代劇の再放送のようなもので、読者が定型を再現する作業に従事することで、無為の不安をまぎらわすのである。(とはいえ、ひまつぶしという映画の側面は、シネコン文化が浸透したことで、各回入替制がひろまったから、営業マンが映画館でひまつぶしする風習も廃れていくことだろう…)

ごくおおざっぱにいうと、小説と音楽が合体して映画になったわけだが、なぜ音楽と小説が合体しただけで、こうも両者に似ても似つかないものになってしまうのだろう。やはり脳科学の出番か…。言語による(原理的に時間を含む)人物描写が、映像による一瞬かつ明快な描写にスイッチしたことによる、巨大な影響というのはあるような気がするのである。