猫猫先生支援、かな…?

 大塚英志が『サブカルチャー文学論』で、高橋源一郎の日記を例にあげて書いていたように、文章のディティールは、わかる人だけがわかる、「文学的ストーカー」だけが読み取れる、そういうものに変質してしまったのだ。

 それは、具体性を失ってしまった、そう、いま、あなたの目の前にある、こういうブログの文章そのものなのだ。あほらしいほど饒舌なのに、具体性はまったくない。

 『妻と私』に、まるで無造作にといっていいくらいにぱらぱらと並べられる固有名詞。旧里見恕s邸、鎌倉プリンスホテル、「週刊朝日」の『夫婦の階段』、済生会神奈川病院、御木本真珠店、和光、日比谷公園松本楼横須賀線グリーン車、…。これらが『妻と私』の後半に、死の時間と対置される生の時間のディティールとして配慮されている事情があったとしても、このザッハリヒな事実性を、たとえば大塚英志が反復しうるのかといえば、それは心もとない。

 『江藤淳と少女フェミニズム的戦後』のはじめのほうで、大塚は私淑する吉本隆明の家を訪問するのだが、そこで描写されるディティールは、律儀に一般名詞のレベルにとどまっている。大塚は、吉本に吉本が飼っている猫の名前さえ尋ねない、あるいは、文章に残さないのだ。http://d.hatena.ne.jp/mailinglist/20071027/p2




 あの湾岸戦争時の文学者声明の意味が、よく判らないでいたのだが、大塚英志の目を通してみるとすんなりと理解できる。ようするに、調子づいてバブルと戯れていた権威の側の人間たちが、自分たちの領分へ逃げてしまっただけだ、と。

 だから、サブカルチャーの人間は、大企業や官庁的な「現実」や、しょせんは権威にすぎないアカデミズムの世界に恋々とするな、虚構づくりの職人に徹せよ、社会に意見をいうときはサブカルチャーの流儀を抑えて発言するべきだ、…というセンスはよくわかる。http://d.hatena.ne.jp/mailinglist/20071031/p1




 大塚英志の「キャラクター小説の作り方」を立読み。自分を語るより語り物をするほうが楽しいし、社会もそういう「作り話力」を育てたほうがよい、という主張はわかる。

 わかるけど、どうも体質的に、そういうのは受け付けない。遊戯文学を読んでいると、不安になってきてしまうのだ。もしかしたら、わたしは「人生を有意義に送らなければいけない」という強迫観念に支配されているのかも…。http://d.hatena.ne.jp/mailinglist/20071102/p1


じゃあ私は時間があったら私小説を読むのかと問われれば、多分読まない。島村英紀さんの『私はなぜ逮捕され、そこで何を見たか。』のようなノンフィクションを読むだろう。私小説を手に取ることがもしあったとしても、その場合の目当ては、主人公あるいは作者の感受性を鑑賞することでなく、叙述された事件の特異性を知ることであるだろう。

今年50になる大塚の世代からしたら「いくらダブル村上がいるとはいっても、文学というのは、ああいう(ダブル村上)ようなものじゃなく、もうちょっと古臭い、“こういうような感じ”のものでしょう…」という非学問的な感覚があるんじゃないかと、私は思うんですが。というかぶっちゃけ私自身、戦後生まれの作家の書くブンガクは、戦前の文学とは別物だという感覚があります。作者が封建制と葛藤してない感じというか、読みやすすぎる感じというか…。





【追記】帰宅前に書店によって『キャラクター小説の作り方』を立読みしたけど、先生、私小説が覇権を握っているのではなくて、私の存在証明をめぐる文章が覇権を握っている、なのではないですか? で、その(大塚の)認識は、まあそうですねというほどのもので、そう特異ではない、と私には思えるのですが。

誰が読むのか。もちろん少数が読む。そんなにみんなが小説を書き始めたら誰が読むんだ。誰も読まなくなって、少数の人々が読むようになる。大衆と少数の人々は違う人種なのだから…。

しかしじゃあなんでそんな絶滅危惧領域に大塚は口をはさみつづけるのかといえば、それはやっぱり漫画ブリッコを編集しながらニューアカに憧れていたりした時期があったりしたからなのではないかと、ごく自然に思うわけですが…。『作り方』のあとがきにある、おはなしインストラクター云々は、それこそ後付の理屈でしょう…。