許容できるうざさ=ユーモア

内田樹せんせえのブログをのぞいたら、「非婚」をテーマに、小津の映画を懐かしむべき昔の美質であるかのように語っていて、おかしかった。

昔だって、ああじゃなかったからこそ、小津の映画があったのではないかと思うのだが。内田せんせえの理屈は、まるで逆である、と思うのだが。昔の日本が、小津のようなおずおずとしたユーモアに満ちた社会であったなどとは、とても思えないのである。

私はいまジョージ朝倉の『平凡ポンチ』を読んでいるのだが、これだって「むやみな妄執の理由付け」である。KYな人間の行動の内にこんな理由があった、だったらそんなキャラも愛せる。むやみに自分が貧乳であることを呪い、巨乳に憎悪を燃やす人間がいたら、そしてその理由がこちらに知らされなかったら、こちらにとってそんな女は変質者である。単に。

なんでみんな結婚しなくなったか。そんなの、結婚しなくてもやっていける、って今の人間が判断しているからに決まっているじゃないか、と思うのだが。結婚してない男は信用できないとか、結婚してない女は幸福になれないとか、そういう考え方が今は前よりも勢力を失っていることも、重要な因子ではあろう。

自分の結婚におせっかいを焼く、ウザイ隣人たちが、こうだったら、自分のいやな現実も我慢できるんだけどなあ、というのが小津の願望だったのではないの、と思うのだが。ああいう映画をつくっていて、しかも自身は結婚してなかったという、小津の事実から導き出される仮説は、内田せんせえのより私のほうがより穏当で妥当性があるように思えるけれど…。