博物館寄贈という「判断停止」

実家のコレクションにインディ・ジョーンズのシリーズのDVDがあったので見た。もしかしたら、『魔宮の伝説』は、いままでテレビ放送版しか見てなかったのかもしれないなあ、と、ところどころ見覚えのないシーンが出てくるので、そう思った。

のちの「ナショナル・トレジャー」のシリーズは、このインディのシリーズが「海外」にばかり目を向けていたことへの補完の意味もあったのかもしれないなあ、と思った。

宝と価値、宝の絶対性と価値の相対性、これらの対比を思ったのである。「どうせ千年後は…」と見当違いな皮肉をくりかえす『レイダース』のベロックや、黒幕のくせに「誰も信用するな」と余裕の表情でヒントをインディに提示する『最後の聖戦』のドノバンといった、相対性の象徴のようなキャラクターを想起しよう。宝と、富と、価値尺度としての人命しかなかった「古代」に、ずかずかとアメリカ人が踏み込む物語。「文化財は博物館へ寄贈しなきゃ」と子供のころから良識を発揮していたインディのシリーズは、結局そういうことだったなと思ったのだ。『最後の聖戦』におけるナチスのように、いらない文化を率先して燃やすのは野蛮だが、さりとて用のない古代の文化をありがたがるには20世紀のアメリカ人は開けすぎてしまっていたのである。古代の遺物は博物館にぶち込んでおくしかない。だから『クリスタル・スカル』は、そういう意味では、シリーズの付録にすぎないというか、あっはっは、宇宙人の知恵を現在の人類=アメリカ人が価値付けることなんて、そりゃできませんわなあ、という曲のない話にすぎない。

『レイダース』のエンディングは、「判断停止」をエレガントにギャグにしていて、しかも『市民ケーン』のパロディも兼ねているのだから秀逸だと思うが、縁(ゆかり)のない世界に無闇に踏み込んだ結果は、つねに「判断停止」でしかないのである。はじめから意味のない行為であった…。

(そういえば『レイダース』の授業のシーンで壮年インディは「考古学は文献考証が7割」とのたまっていたけど、『クリスタル・スカル』の図書館のシーンでは「現場に行かなきゃダメだ」と捨てゼリフをのこしていて、ちょっと笑ってしまう。インディ、ボケたな…)