不良と浮浪児の歴史

1933年生まれの岸田秀が早稲田の学生だったころに住所不定で野宿したり知人宅に泊まったりしていたのは本人が語っていることだが、そのころは60年安保までもまだ数年あるという時代だった。

1924年生まれの安部公房は、満州からの引き揚げの途次に中国人の暴行をいろいろ見ているらしい。私が読んだのはインタビュー記事だったが、もっとまとまった形の文章があるのだろうか。負けが決まった日本人に結構残酷なしかえしをしたらしい

【10月31日追記】(記憶に頼って書いた文章だが、正反対の間違いをしていた。『反劇的人間』(全集24巻など)の第2章「日本文化と残酷」の冒頭「終戦直後の満州で見たもの」参照。日本人が日本人を襲っていたのだった。)

1976年生まれの私が知っている不良は、まずは80年代の校内暴力と暴走族で、これはテレビで知った知識にすぎない。私自身が中学生になって(平成最初の中学生である)、その中学校にも不良がけっこういて、ボンタンをはいてカラーシャツを着、金にちかい茶髪をリーゼントにし、顔じゅう吹き出物でいっぱいだった。当時の私はアニメに夢中のおたく少年だったが、直前の宮崎事件を気にして、もっと大人っぽい文化を身につけようと島田雅彦の『僕は模造人間』を読んだりしていた。だから、かどうか知らないが、上記のような不良に目をつけられて、小突かれたりしたのである。

1951年生まれの押井守学生運動体験は、まるで「街中の校内暴力」でしかなかったようで、つまり歴史的な順序だてでいえば、70年前後の街頭暴力を80年代中期には学校の中にまで「押し込める」ことに、当局が成功したということである。『ビューティフル・ドリーマー』でおたく文化をいっきに花咲かせた押井自身、本人の思惑はどうであれ、当局の片棒をかついだようなものである。

ちょうど90年ごろ、バブルが崩壊したころに、暴走族も、「今の社会風俗」でなくなった印象があるのだが、どうだろう。もちろんいまでも暴走族は存在しているのだろうが、今のものという必然性は感じない。

90年代中期はチーマーが怖いといわれて、当時の村上龍が、渋谷の裏通りなんか怖くて歩けないよとか言っていたものだが、私は90年代後期は渋谷の安全なあたりをうろうろしていたのである。要するに映画館なんだが…。当時の渋谷東急なんか、下のパンテオンよりいい映画館だったんだけどねえ。移転したほうは一度も行ったことがない…。