世界か人か

竹熊健太郎のいう「オタク密教派と顕教派」の問題を考えている。あるいは、理論派とミーハー派はなぜ分かれてしまうのか。

ヒトは外界を人間かそれ以外の事象かで分類する。対人間は「社会の問題」で、対人間以外は「世界の問題」なのである。ヒトが社会的な考え事をする場合は、相対性から逃れることは出来ない。やったら、やりかえされるのが基本である。この人間間の相対性をコントロールするために掟や法の各種装置がある。それに対して世界の問題は常に絶対的なものなのである。鉱物を壊しても、鉱物は文句を言わない。植物や動物を殺しても、植物や動物は文句を言わない(立ち向かってくることもあるだろうが)。

理論派、オタク密教派、というのは、人間を世界としてコードする誘惑にかられた人々といいうるのではないか。世界を世界としてコードする絶対的な快楽を人間に向けて外延したいのではないか。顕教派というのは、そういう傲慢さなしに、ふつーに人を(キャラクターを)好きになる人々なのではないか。