義憤にかられる必要があるのかなあ…

私は『プロ倫』をちょっと眺めただけでちゃんと読んだことない人間だけど、プロテスタントの倫理と資本主義者の精神には通じるところがあると説く本なのかと思っていた。もちろんそうではないとヴェーバーは説き、しかしその論証がインチキだったというのが、羽入説なわけだ。

『犯罪』のほうは読んでいないけれど、羽入氏はとんでもなくめんどうくさい作業を嬉々として続けて、その結果が羽入説として結実しているわけで、それがちょっと無下に扱われたくらいで義憤っていうのは、どうかな、と…。

私はヴェーバーに騙されるところにすら行っていなかったのだから、私にとってはヴェーバーは詐欺師ではない。私にとってはヴェーバーは手品師でしかなかった。手品の種は、明かされてみたらあっけないものであった。ルターはベルーフなんて書いてない。フランクリンは例えとしてだが予定説の神について触れている。…。