国を背負う

『総長賭博』の鶴田浩二が、任侠道を背負っていたつもりで、じつはそんな任侠道など、ただの空虚だったと悟って、だからひな壇にヤッパを突き立てて茫然と去る、そしてここからが重要なのだが、囚人としてそれまでは無関係なものだった国家に「所属する」という論理はよくできていると思うのだ。金子信雄にとって国家は方便でしかなかったが、鶴田は国家に従属するのである。

『総長賭博』を褒め称えた三島由紀夫は、しかし劇中の鶴田のようには、囚人になることを受け入れられなかったのである。結局は、三島は、劇中の金子の側の人間だったのである。三島は、国家語りをしていただけで、国家への従属を拒否したのである。三島は、本質的に傲慢で卑怯な人間で、そういう自分の本質を認めることができなかったのである。三島の本を書斎から除いた*1鶴田浩二は、正しかったのである。

とはいえ『天人五衰』のエンディングには『総長賭博』の響きがまじっている。あるいは『総長賭博』に、自分の関心と通じるものをみて、三島はこの映画を賞賛したのか。

人を殺さない国家は、ようするにいい国家であって、この「いい」というのは、つまりは「どうでもいい」に通じるような「よさ」のことである。いい国家をさしおいて民はリアルな社会を追求したのである。

本が売れなくなったのは、その追求の結果としてあるだけであって、それ以上の意味はない。市場がなくなって、職にあぶれて、路上にほうりだされる人々にとって、社会は国家以上にリアルでシビアな相貌をあらわにする。

食えないから、犯罪をおこし、囚人になる。それはつまり、国家に囚人として所属することなのである。そして、いやはや、ポール・W・S・アンダーソンでさえ社会派囚人映画『デス・レース』を撮ってしまう(冒頭の機動隊のシーンを見よ)、現代という時代の(あるいは国家という観念の)追い込まれぶりを思うのである。

*1:http://ja.wikipedia.org/wiki/博奕打ち_総長賭博#.E3.82.A8.E3.83.94.E3.82.BD.E3.83.BC.E3.83.89