ヒーローの素性

『遊星王子』といい『宇宙快速船』といい、変身シーンに類する表現がないのが面白い。アメリカのスーパーマンには変身シーンがあったのだから、そういう表現を当時の映画人が知らなかったわけではなく、必要を感じなかったのだ。

科学特捜隊はハヤタとウルトラマンの関係を知ることなく物語は終わり、モロボシ・ダンは最後の戦いに際してアンヌ隊員に自分の正体をうちあける。本郷武は敵組織に改造されたという来歴を、早い段階で立花藤兵衛に知られていた。

私なんかは、ヒーローものやアメコミものの映画に、ドラマ性をもち込むのは、バカらしいと思うほうだが、『ダークナイト』なんかもアナーキズムの考察としては無類に面白いけれど、あのバットマンにヒーロー性などみじんも感じないし、そのアンチテーゼのような『ハンコック』は、つまり『大日本人』とおなじく、要するに風刺だし、ヒーローものというのは、民主主義者がそれに魅了されていることを他人に知られたくない、封建制への秘めたる願望のようなものなのかも。