『ドグラ・マグラ』

ようやく読了。最後にいちばん面白いテーマがでてきた。いまは本当に今なのか。あるいは、どの今が本当の今なのか。人間の本質は、受精卵の時期にあるのか。胎児か、幼児か、青年か…。まさに人には脳が、いや、そもそも体が一つしかないために生ずる問題…。

奇書という位置づけがよくないのだ。普通にちゃんと理屈をこねてある小説ではないか。狂気した人の絵を見せることで、その血族にもおなじ狂気を発することができるか、というのは、まあ、いまではありえん理屈になってしまったが、DNAが遺伝子の本体だという報告がなされる二十年も前の小説だし、そこは大目に見よう。それにしても、こういう小説を奇書としてしか位置づけられない社会の貧弱さよ。

人間の人生を実験材料にするコワさというのは、まあ、これは現代にも通じるものだ。その大義名分が国家だとか学会だというのは、さすがに昔の小説なのだが。

平和になると、安楽な生活を食いつぶしながら、人は胎児の夢をみる。出版は昭和だが着想は大正の頃からあったらしい『ドグラ・マグラ』は、明治を経てようやく安楽な褥となった大正という時代にくるまれた胎児の夢だったのである。

戦後昭和というのは、そういう意味でいえば、廉価大量生産版の大正なのだから、いちいち名はあげないが、あの小説や、その小説は、つまりは『ドグラ・マグラ』のイミテーション、廉価版なのだと思えば、容易に腑に落ちるのだ。

胎児の夢は、自費出版するのが、本道なり、一行も腐っていてはならぬ。あれ…?