変態論

レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで』を見ていておもったんだけど、まあ、男の性についてである。

男っていうのは、年長者に号令をかけられて、ターゲットを設定してもらって、いっせいに飛びかかるのが、好きというか、快感であるというか、体に染み付いているわけだ。どっかの大学のラグビー部みたいに。

しかし平和な時代には、そういう行動は不適切なわけで、なるべく状況にフィットするように、性行動をねじまげる。これが変態なわけだ。

ディカプリオのオフィスの同僚たちって、ちょっと変態っぽそうだったもんな…。

ディカプリオ自身も企業社会に折りあって、変態への階梯を上ろうとしたのだが、手痛い破綻を被るわけだ…。

何度かセックスシーンが出るこの映画で、いちばん真率に描かれるセックスは、隣家の男とケイト・ウィンスレットのカーセックスで、つまり私は三こすり半のセックスこそが、男の本質だと思っているわけ。男が、すぐに果てたのを申し訳なく思って、ケイトにくどくど言い訳しようとするのを、彼女は即座に遮断する。ああ、すげえ、これは本気のセックスだ、と私は画面のまえであっけにとられた。

ディカプリオと愛人の事後のシーンと、まさに対照的だ。どうでもいいディカプリオのごたくを、愛人は聞くともなく聞いている。あるいは聞き流している。あるいは理解できないのに、さらなる説明を求めそびれている。しどけなくタバコを燻らすしかない。(と、ここまで書いていて思い出したが、ディカプリオとウィンスレットは、劇中で本気のセックスを一回してるね…)

それにしても1955年の頃のアメリカは、避妊しないのがスタンダードだったんだろうか。日本もそうだったのかな。今でも、もしかしたら、そうなのかもな…。私は生でセックスしたことないから、妊娠をめぐるドタバタは、なかば白けて眺めていた。私にとっては、中世の学者が、地動説を前にして恐慌を来す様子を眺めるのと、まあ、大差ない…。

母親のせいでおかしくなった息子は、真実暴露マシーンに変身して周囲に迷惑をふりまき、そのことによって間接的に母親に復讐する。しかし、母親は、息子の行動が間接的であることによって、息子の自分への配慮を嗅ぎ取って、その現実を追認する。つまり、満足してしまうわけだ。いやな関係だねえ。息子君、きみに必要なのは、三こすり半で果てる本気のセックスだというのに…。