『愛のむきだし』

性への言及があまりにも多いので、つい忘れてしまうが、本作には一度もセックスシーンがでてこない。あまつさえ、主人公は射精さえしない。

監督のことは、よく存じ上げないが、もしかしたらクリスチャンなのだろうか。肉をきらせて骨を断つ、ではないけれど、パンチラや変態の大盤振る舞いによって、セックスをかろうじて回避しえた、のかな、と思うのだ。

変態というのは、サド的な意味では、通常は、射精に至らないとされる行為で射精することを指すのだが、この作品では、そうではない。べつに心理学的な定義に、いちいちしたがわなければいけない理由はない。しかし、考えてしまう。

映画芸術』誌のインタビューで、監督は「言葉しか信用しない」と発言していて、これはとても腑に落ちる。『愛のむきだし』は徹頭徹尾、言葉で構築された映画だと、私も思う。ほとんどのシーンは、都会を舞台にしていて、まれに砂浜が出てくるが、樹海やら森やらの自然は出てこない。まさに一神教の映画だ。都市と砂漠の映画なのだ。どこかの新聞のウェブサイトで、これも監督が発言していたが、「上映時間は四時間だが、体感時間は一瞬」これもよくわかる。言葉の、つまり話の内容には、時間が流れないからだ。すべては言葉によって把握された事項が、物語としてパッケージされているので、時間を感じない、つまり、退屈ではないわけだ。

論理的に構築された前半に対して、後半の話には飛躍する流れが出てくる。べつにゼロ教会が消滅するとは限らない時点で、なぜ、コイケは自殺してしまうのか? さそりの虚像にまどわされることなく、ヨーコはなぜユウを愛するにいたったのか? 考えはじめると、実は論理的には納得できないのだが、実際の映画を見ると難なく腑に落ちる。これが不思議である。とりあえずの答えとして、「見ているこちらが、登場人物たちになじんでしまったから」という理由をかんがえているのだが、どうだろう。納得できる飛躍、そういえば、宗教がもともとそういうものではないですか。

紀子の食卓』が開いた終わり方をしているのと対照的に、ずいぶんクローズドな終わり方をしている。もう二人は結婚して家庭を築いて、子供を作るしかないだろう。そう思ってしまう。そういう結論に流れるのが、これまた、宗教ということになるわけで...