『トニー滝谷』

愛着をめぐる心理学としては、ごくストレートな物語。昔は、こういう感傷について語る場合は、あっさり幽霊を出した。いまは、そうではない。それだけの話。うつろな部屋に充填するかのように、たくさんの服がひしめいていて、これは、けっこう怖い。

主人公は、空虚となった妻の衣装部屋のなかで、ふと寝転がり、胎児のように体を縮める。これが、終戦して中国人の捕虜となった主人公の父親が、獄中で寝転んでいた体勢とかさなりあう。こういう表現をみると、今の私は夢野の『ドグラ・マグラ』を思い出す。

そういえば、今はもう2009年で、これは1980年代について語っている映画だった。日本人は、豊かさをうまく扱えなかった。そういう諦念の映画なのか、とも。

べつに、よその女を、自分の妻の形見と思ってもいい、と私は思う。しかし、だったらはっきりと相手にそう伝えなければ、だめだろう。はっきり伝えれば、女も面白がったかもしれない。

世間から隔絶された主人公が、じつはけっこう世間を気にしている。あるいは、他人を妻の形見として「モノ扱い」することに人倫を侵犯する怯えを感じる。これが滑稽だ。もし前者なら、主人公は臆病で卑小な人間だったという話でしかないし、後者なら、主人公は自縄自縛の行き止まりの状態にある、というだけの話だ。

主人公が、電話をガチャ切りして、映画の流れを寸断するように終わったのには、もの足りなさを感じた。主人公は、その照れや気恥ずかしさをじっくり味わえばいいのに。

他人とうまく心が通じない。そのことを、ヘラヘラと楽しむ話にすればよかった。自殺しないで生きていくって、結局、そういうことでしかないでしょう?

間延びした短編映画だったという気もする。