無神論者と宗教

私は無神論者だけれど、他人が宗教にいれこむのには特に何も思わない。

案外、こういう考え方は珍しいのか?

だって、別に無神論になったからって寿命が延びるわけじゃなし。なんのメリットもないもんな。ドーキンス先生と違って、私はとくに他人に無神論を薦めようとは思わない。

土本典昭監督の『不知火海』を見たことがあるのだが、この作品のなかに、水俣病のせいで自分が患ったか、子供に障害が出たかした主婦が、自分の身にふりかかった不幸の意味を考え、談話にするシーンがある。この主婦の真剣さに、私は心うたれた。見ていて激情にかられた、そう表現してもいい。彼女の判断は、誰かが気軽に批評できるようなものではない。未見の読者は、機会をとらえて是非見てほしい。

私は真剣な人が好きなのである。真剣に考えた結果が、幼稚なものだったとしても「よく頑張った」としか思わない。『地獄の黙示録』でいうところの「俺の水筒の水を飲む権利がある」というやつである。

私はわりと映画を見る方なので、最近の映画を見ていると特に思うのだが、もう、つらいのだ。自分は真剣じゃありませんよ、でも映画を好きなんですよ、そういうポーズの連続で、うんざりするのだ。でも、映画にかぎらず、みんな、それぞれの分野で、そう思うことが多いんじゃないですか?

自分はこんなに勉強してますよ、知ってますよ。そう言われても、困るのだ。それ、みんな他人のつくったものなんだから。

知情意のなかでは知がいちばん数値化しやすい。数値化しやすいものは構築しやすいものでもある。『ダークナイト』や『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』など、評価は高いが、これも感情を描くというより、図式の提示に熱中しているようなのが気になった。駄作のみならず傑作にさえも、悪しき知性化の波が覆いはじめている気配があるのだ。で、監督、あなたはそのバットマンをかっこいいと思っているんですかと、どうしても思ってしまうのだ。大富豪なら人を撲殺してもおとがめなしなんですか、と。描いたものに関して、どう思っているのかが見えないのだ。

どうせ理屈をこねるんだったら、つきぬけろよ。サドのように。あれ、サドも無神論者なんだった。居心地悪いな...