『花々の墓標』

V章にはいってからのそれまでの流れからの急変ぶりにとまどう。ずいぶん小説小説していて、おもわずうかぶ眉唾な印象を拭えない。

47ページの考え方など、ずいぶんあまえたことを言っているなと思ったが、著者は専門職の家に生まれて姉は音大中退、自分は東大仏文、妹は私大に進んでいて、家庭が崩壊する前は教会にも通っていたらしい。つまり私が何をいいたいかというと、この家庭には見事に肉体労働がないのである(家事労働すらしばしば行われなかったらしい)。私は著者はさっさと実家と縁を切って就職するか奨学金を取得するかしたほうがよかったのではないかと思うのだが。

言葉と肉体、ではなく言葉と性器という人生は、そりゃつらいだろうなと思う。それで頭脳労働に従事して、生活圏は東京という世界有数の都会(変態の巣)にあるのだから、境遇の不幸の度合いは加速するばかり。

文章は相当に明晰だが、こういう恨み言をのべるジャンルのご多分に漏れず、多弁であるが思考が浅い。しばしば世間の通念によりかかった紋切り型がでてきて、それを根拠に思考を展開しているところがあって、私は正直食い足りない。

私は恋愛にうとい人間だが、最近いろいろ読んだり身近なところで見聞したりして思うのだが、恋愛というのはチキンレースというか経済学だなあということ。著者が愛人状態におかれることに納得せずにいろいろほかの男にもわたりをつけているところなど、要するに感情をファイナンスしているわけだ。心の最適状態を求めて。

文中にもあったが、著者は実際に父親をバットでめったうちにすればよかったのにと無責任に思う。実際に暴行することが許されないのなら、部屋に等身大の人形を置いて顔に父の写真を貼ってそれを打ち据えればいい(父親の容姿が描写されないのも気になった)。そういえば、丑の刻参りなんてものがあったな。あれ、なんで他人に見られたら効力をうしなうのかね。逆だろうに。ああ、呪った自分にも(自分が誰かを呪っていることを知った社会からの)呪い返しがあるからということか。

著者がどうおもっているかわからないが、この本の落ちは、要するに言葉の上でだけ生前葬をしたということだろう。実際にやってみればいいのにと思った。大学時代に関わったらしい演劇サークルで、著者は舞台に立ったりしなかったのだろうか。

花々の墓標

花々の墓標