見えないものごと

体感というのがあるから、それが形而上的な考えの基礎となったのではないだろうか。体感を抜きにして、形而上学やら身分制やら宗教やらを見たら、それはその人の目には迷妄としか映らないに決まっているのだ。体感は、目に見えないのだから。私が筋トレをしていくら気もちいいと連呼したところで、それを聞く人は、聞くしかない。筋トレの気持ちよさを聞くだけで味わえるわけがない。

そういえば、ある、という存在する感じは、それこそ感じなので、やはり体感から来るのだろう。それに理屈を付ける方が、視覚や聴覚に理屈をつけるよりも先決だったのではないだろうか。心臓の鼓動や、疲労時の筋肉の痙攣などを、いちいち病気だと思っていたら、やっていけないからである。だから通常の身体的反応は、オーディナリーなことであると「精神」を定義する必要があった。生きること自体に不安になってはいけないと取り決める必要があった。

宗教嫌いが嵩じて、かえって宗教的な人間になってしまいそうな私である…。見えないものをあると言い張ることが、あるいは宗教の本質なのではないかと思うのだ。原始宗教には、筋肉とか神経とか脳とかの用語が欠けていたために、おかしなことになってしまったのではないか?