『脳と魂』

第四章のはじめのほうで「筋肉の記憶」について語っているところは、ちょっと意見があるのである。筋肉を鍛えはじめると、筋肉が増大するまでに時間がかかる。これは、筋肉に記憶する部位があって、それが一定の時間と負担を察知するとタンパク質を余分に生成するのではないか。だとすれば、どこにそんな物質的基盤があってそれが「記憶する」というのだろう、という議論をしているが、はたしてそうだろうか?

筋肉を鍛える、とくに意識しないで日常を過ごす、この二つの差は、それこそ議論する側の意識的なものに過ぎないのではないかと思うのである。鍛える気がなくても、肉体労働すれば筋肉は発達する(そして筋肉の発達は、個人差などによる限界がある)。だから私は、筋肉は記憶しないと考える。

部位を変えて言えば、脳だって生物組織なのだから、脳が記憶するといっても、単純な記憶力なら市販のPCにすらかなわない。とはいえ、脳は筋肉よりは記憶に長けてるわけだ。

脳に、じつはそれほど可塑性がないから、その機能の余裕のなさを「魂」と古来表現していただけではないかと私は思う。なぜかしらないが、人間は食べられるために存在していると思うよりは、食べるために存在していると思っていた方が生きる意欲がわく生物なのだ(『ソイレント・グリーン』)。食べられることだって、他人の生存に役立つわけだから、見識といえば見識なのだが、通常、人はそういうふうには思わない。この「余裕のなさ」が、つまりは「魂」なのではないか。

そういえば、鬱病の流行(151ページ)も、いまの人が「生きるために生きている」と自己認識するようになった結果なのではないだろうか。そういう前提で生きていたら、不安は強いダメージになるはずなのである。楽しみのために生きるのだと思って生きていれば、なにもする気になれない時間をすごす余裕はないはずなのだ。

脳と魂 (ちくま文庫)

脳と魂 (ちくま文庫)