『支配と服従の倫理学』

支配と服従の倫理学

支配と服従の倫理学

小谷野さんの記事を読んで立ち読みしたけど、違和感がある。

集団と関わるに際して、自己をどうコントロールするかということを論じていて(おおざっぱに立ち読みした印象)、結論もおおむね賛成できるのだが、でもなんだか不快感があるのだ。

四十歳以降の人生は本人の自業自得だと言っていて、まあじっさいそうなのだろうが、意気のあがらん結論だなあと思うのである。こんな味気ない「落ち」なんだったら、三千円は払わない。買わない。

マンションの自治会長かなんかが、やくざの脅しに従っていて歯がゆかったという話をするあたりで、だいたい羽入氏がどういう態度で行動しているのか、ニュアンスがつかめた。だからアイヒマン実験の話や、零戦の設計のあたりは読み飛ばした。宗教団体が集団内のコントロールにセックスをもちいる話は、ちょっと期待したが、べつにそうおどろくべきことを述べてるわけではなかった。関心はあったけど、マスコミは私(羽入氏)の興味を満たしてくれなかった、という報告だけ。

羽入氏が、他人をどうコントロールしたかとか、後から振り返って、あれは私(羽入氏)にたいするコントロールではなかったかと思い至ったとか、そういう報告が聞きたいのである(私が読み落としただけかも)。羽入氏のエピソードは、だいたい「綺麗すぎ」て、前に『学問とは何か』を読んだときは素直に感嘆したものだが、さすがにつづけて本書を読むと、眉唾な気がしてきたのである(刑事が拳銃をおもちゃにさせてくれたとか)。日垣隆を連想してしまうのである。

まえがきにそくして言えば、私は、ちょうどマルクス主義への不信をわずかに持っているが、しかし斜に構えてみるほどこの思想と格闘したこともなく、そしてまったく無知でもないという半端なところにいるのである。かえって別冊宝島とかのほうを、それほど読んでいない。どうせすぐ忘れてしまう情報をなにをそんなに勢い込んで読もうとするのだ、と思ってしまうのだ(だから、私も、羽入氏の世間話の古さ、というか世間話で聴衆とつながろうというやり方を、羽入氏に注文をつけた学生と同じく、マイナス点だと感じる)。

私は、社会は、安全で退屈なものになればいいと本気で思っている。監視社会になったって、べつにかまわないのである。ウォッチメンをだれが見張るのか、という問いは、気が利いてるつもりで、じつは幼稚なものでしかないと思う。機械がするのに決まっているじゃないか(ユウェナリスの時代に、機械はまだなかったのである)。

ヒトという生物が、人間という概念を廃棄すればいいだけなのである。人間の尊厳なんて、神や宇宙人と、どっこいどっこいのたんなる「概念」でしかないではないか。羽入氏が正しくて、どこかの政治屋や煽動家が悪である、とするその根拠は、羽入氏の信念にしかない(ある体制が個人を搾取していたかどうかなんて、事後的に判断されるものでしかない)。こんな非科学的な話があるだろうか。主張は聞いた、証拠のすべてを見えるところに出せ、判断するのは私の方だ、と思うのである。さあ、録音を聞かせなさい…。

(虐殺を目撃した子供の画がリアルだ、という表現も、ちょっと気になった。リアルというと、デッサンができてるという意味もあるから、どちらかというと、「(子供の画なので)内容をぼやかしたりせず、即物的であからさまである」くらいのほうがいいのではないだろうか)