平和な時代に、人は談話するしか道がない

鏡の女たち [DVD]

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以前みたときは反感があったのである。田中好子一色紗英の描き方が、あまりに同情を欠いているように思われて、それが監督の傲慢さにおもえたのだったが…。

徹頭徹尾岡田茉莉子の映画なのだと悟って、急に印象が反転したのである。昭和初年にうまれた「老人」が平成十四年という、「未来の日本」をさまよっている。そういう映画なのかと思い直して、ああ、それならば素晴らしいと感じたのである。

なにしろ最初から岡田茉莉子がバスにのって区役所へむかうのをカメラはながめていて、それは山本未来岡田茉莉子を尾行しているからなのだが、ここで大事なのは、平時の人間というのは、交通手段にアクセスするために歩くか(岡田茉莉子)、もうそれをすませて他者を観察するか(山本未来)しかないということだ。平時の人間は、歩くか、見るかしか許されることがない。

もうひとつ許されること、それは話すことだ。この映画の人間たちは、この三つのことを、徹底してやりつづけるのである。歩く、見る、話す。異様な映画だが、しかし凡百の映画よりも、この映画こそが、「現実」に近い。

すべての「コト」はもう起ってしまって、人は、そのことを回想して話をするしかない。過去に関わりがあった男と再会した一色紗英は、男からの誘いをことわる。いまは、その時期ではないのである。

この映画では徹底してコトが起らない。かつて起った戦争という過去と、起るかもしれない未来(田中好子の誘拐再犯)への不安だけが語られ、顧慮される。その発見が映画をはじめるきっかけとなった田中好子の失踪とともに、映画はおわり、それはこの映画という「コト」のおわりを意味する。

イレギュラーなことが徹底して起らない演出法に、正直舌を巻いた。ルールが貫徹しているのである。原爆雲やケロイドの写真すら、それを搬入だか搬出だかしているスタッフつきで「映り込む」。原爆やケロイドは、「不測の事態」だが、それらの写真を移動するのは「日常の出来事」なのであった。

いつも性交していないと不安におしつぶされる。個人的には、そういう心理状況は、想像を絶する。しかしそういう内容のことを岡田茉莉子は子に語り、孫に語る。この異様さにはあっけにとられたが、ようするに、ここでも平時というものをあぶりだしているわけだ。岡田茉莉子は、コトが起らなくなった「未来の日本」に漂着し、悲惨な過去を回想するのだ。

セックスしてないと人は生まれない。しかしその現場は他人に見せるものではない。まさに「コト」そのものだから。そして「だから」西岡徳馬田中好子はツーショットにならないのである。室田日出男は孫までいるから「安全」なのである。家があるということは、それは、そのどこかの部屋が「ヤリ部屋」として存在しているということだ。鏡のヒビを放っておく女たち。一色紗英がその風習を母や祖母から受け継いでいないのだとしたら、彼女はまだ「家」に入っていないということなのだ。吉田喜重は、アメリカが一色紗英の「家」であるという設定にはしなかった。そこまでふみきれなかったのである。