結婚という「強制連行」(『鏡の女たち』について)

岡田茉莉子はつらい過去と心労によって、田中好子は記憶喪失によって、一色紗英は再燃した家庭の事情によって、「家」の問題から免除されている。(よその)家に参加させられることから免除されている。

西岡徳馬は「家」ならぬ家を家の外につくることで、家に参加することから逃げている。だから平気でタンスのなかみをぶちまけることができるのである。かたすのが大変という、「家」的な発想がないのである。

室田日出男は家に従順に参加しつづけたから、その報酬として多少の自由を「家」からあたえられる。

法によって国家にプロテクトされた共同生活。結婚ってそういうものだったはずなのに、しかし、戦後の人は結婚について語りたがり、改革したがり、つまり自分たちからプロテクトを放棄しはじめた。では彼らはかわりにだれがプロテクトしてくれると考えていたのだろうと、私はいぶかしむ。

なぜ語りたがるのだろう。語ってしまったら、それは聞き手と共有されて、語り手が(大事に)かかえている(はずの)プロテクトが解かれてしまうというのに。

言ってしまうことが勝利につながる。つまりそういう気分が安吾の時代のものだった。結婚する力がないことに直面し、母親の期待をうらぎり、しかし母親にあまえていた安吾は、戦後の人間の原型となった。言ってしまうことが勝利につながる。そういう時代はたしかにあった。しかし今や、その勝利の果実は先行する世代に食い尽くされてしまったのである。現在において、他人の話を一方的に聞かされるくらいの搾取というのは他にない。知らずにいると危険があるかもしれないという事情があって、はじめて他人の話は聞くに足る。しかし、いまや話をする人の話は「確実に安全」なのだ。いまは話をしない奴がヤバい(危険という意味でも、魅力的という意味でも)。確実に安全な過去の話を聞くことほど、聞き手が搾取されることはない。だれだっていやなのである。

『鏡の女たち』にも映画のフィクションがあって、つまり男に聞かせられないことを女たちはボロボロ喋って、それを男の監督が撮って、男の観客である私が見ている。一生起こりえないことがあっけなく実現している。それがつまり虚構ということであって、「本当にこうなんですか」という問いに「あれは映画ですから」とかわす余地が作者や役者に残される。