ヒトという生物の必然、「人間」論
- 作者: 養老孟司
- 出版社/メーカー: PHP研究所
- 発売日: 2003/08/02
- メディア: 新書
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どうもヒトも動物もおなじではないかと最近とみに思っていて、動物、たとえば蟻とかとヒトを比べると、蟻塚なんてのはまさにビルそのもので、お台場あたりから陸地をながめると、ちょっと茫然とするのである。蟻塚が乱立しているようにしか見えないのだ。
ヒトが人間にみえるのは、その相手との距離に関わっているだけなのかもしれない。
戦後すぐ安吾がスターになったときの人々の気分って、さすがに私はよくわからない。三島がスターになったときは? 石原も野坂も、そのときの感覚が体にのこっていて、それを前提にあれこれいっていたわけだ。石原も野坂も、三島のむこうに立つ、三島をスターと認めた日本社会をみすえてものをいっていたわけだ。
私自身をふりかえれば、子供だったので、ビートたけしがスターになっていくときの様子さえおぼつかない。ようするに私は、団塊の世代すらわからないということだ。仕方ないか、親の世代だし。リアルタイムでは、ダウンタウンをすごいと思っていたけれど、いまでも知らない世代にすすめられるほど好きか、というと…。
こういうもろもろすべてが、ようするに都会の現象なんだとおもいしったわけである。『ふたりのベロニカ』に不満があるのは、あれ、都会の話なのにやけに静謐なんだ。都会人の内面を映画が表現として先回りしている。都会の本質って、結局「人の評判」なんだ。人そのものではなくて。『ベロニカ』だって親類に自分の恋愛話していたもんな。そんなの聞かされたって困ると私はおもうけど、都会で相手にそういうこと言うと敵意の表現としてうけとられちゃうんだ。ああ、おれは子供だったなあ。
『鏡の女たち』でも明確に表現されていたけど、都会では、歩いて見て話すことしか許されないんだ。肉体労働しているひとは「かわいそうだから」ながめてはいけない。肉体労働者はあの映画にでてこなかったもの。
気づいたら、俺、東京のまっただなかに十年いて、そのあいだ、ぜんぜん他人の「脳のなか」に入らなかったから(入ってたまるかとおもってたし)、周囲の人から胡乱に思われていただけだったんだ。肉体を何ものかとしてコードしなかったから「あんた誰?」って思われ続けていた…。