人間の基準というものはない

むかし鈴木信太郎の本を読んで、やけに睡眠時間が短いのに驚いたことがあったが、まあ「そうだというからそうなのだろう」。

人間の動作の基準というのは、おどろくべきことに「ない」のだ。ここ15年ぶりに体重が80キロを割りつつあって、しかも筋トレしているからやけに軽いのだ(おとといも10キロ近く歩かされたのだが、さして苦でもなかった)。この基準がないことの不安は、中山康樹の述べた「禁煙があっけなく成功した不安」に通じるのかもしれない。いま私は体が動くことへのおののきがあるのだ。肥満というのは、都市にも、農村にも、自我が拒否反応をしめしているということだ(肥満してても堂々と他人とわたりあう奴は違うだろうが…)(岡田斗司夫は、だからあんなに「オタク」にこだわっていたのだろうな、と思う。大塚英志は、太ってなくても同じことをいいそうだ)。

相対性理論は人間関係にも適用できるとしかいいようがない。私は仕事の都合上、いろんな人に一瞬だけすれちがう。いろんな人がいるんだなということを実感するが、これは「すれちがっている」から「そうみえる」のだ。封建制は、人間にまつわる相対性(端的に不安になるから)をうちけす試みだった。あんまり体が動く奴は「芸人」にして、視界から遠ざけたのである。