『アキレスと亀』

なんと戦後についての映画だった。『タケシズ』や『監督・ばんざい!』は自分についての映画だったから、バランスをとったということだろうか。

北野武が自分の若者時代が大嫌いだったろうことは、美大サークルのシーンをみると容易に想像がつく。無責任にはやしたてて場をもりあげる若者たち。自分たちがなにものでもないことを悟って、ある若者は歩道橋から投身自殺する。しかしこれは映画である。こういうつまらない輩が、中年を通り越して老年をむかえ、まだえらそうにのさばっているのが現代なのだ。

うまくいかないことがつづけば人は自殺することもある。そういう事実を平然と観客の前にさらしたことは、評価してもいい。自殺した妹の死体を怒鳴りつける大杉蓮の芝居はすばらしい。なぜ病死に涙して(『世界の中心で愛を叫ぶ』とか『恋空』とかな)、自殺はいけないなどと言うのだろう。だったら、金、貸してやれよ。仕事、斡旋してやれよ。

戦後って何? もちろんひとことで言い切れるんですよ。戦争に負けたことを直視しなかったでしょう。それが子育てにもあらわれてるんですよ。主人公に、なぜ死体となった母親の肖像を描いてはいけないのか、懇切にいいふくめる親類がいなかったでしょう。ようするに宗教から目を背けたんですよ。宗教の必然から、人間が生きて死ぬことの必然から目を背けたんですよ。だから主人公は白紙やカンバスに向かい、自分の内なる声に耳を傾けるしかできなかった、画商のあやふやなレクチャーに右往左往するしかなかったんですよ。そんなこともわからないで生きているんですか? 主人公の死を、主人公の娘が看取る展開が、北野武は不安でしかたないんですよ。だから娘を先に死なせてしまう。そして主人公は自殺しても死にきれなくて(というか、焼かれながら絵を描こうとするあれは、芥川の「地獄変」を、娘ではなく自分の体でやってるだけなのだ)、そののちに主人公の死を看取るであろう、主人公の妻と復縁させるんですよ。あれはようするに血のつながりが怖いといっているんですよ。

エンディングが隅田川なので、いまの私はどうしても『buy a suit』を思い出す。

ガマの油』もそうだったけれど、いま五十歳以上の世代は、「子供を育てられなかった」という感傷に、へんにナルシスティックな色彩をまぶして浸っているのだなあ(この映画では、主人公の娘のあつかいに顕著にあらわれている)。当の子供の世代である私は、「いい気なもんだな」と思うばかり。まあ、こっちはこっちで勝手にやるさ。あなたたちからは何も受け継ぎません。