性的半幻論

自我というのは、いかんともしがたい現実をいいわけして否認するために存在している。だから、あらゆる「談話」はウソであり、幻想なのだ、ともいいうるわけだ。

幻想には「体」がある。「形式」ともいえる。表現されたものは「限定」される。ヒトの個体はいつか死ぬのに、自意識は自分が死ぬことを前提としないで語る。「だから、ウソなのだ」。そういってみてもいい。

私には主張がなくて観察だけがある。相手に提案するという心構えがないのである。昔は私のようなのは「さとりの化け物」として嫌われたのであろう。なぜ「化け物」かというと、私が人の体を有しているからである。人の体を有しているのに、その体が、人ならぬ機能を呈する。だから、人は私のようなあり方にとまどうのである。

自我というのは、着衣した他人と自分との葛藤の場であるが、性幻想というのは脱衣した他人と自己との葛藤のあいだに存在する。

ヒトにかぎらずたいていの哺乳動物は群れるのだから、個人というのはあきらかにナンセンスなのである。ここ数百年、一部地域で流通するタームにすぎないのである。「地球温暖化」とおなじである。

個人であることや個室をもつことが重要ではないのだ。ある個体が群れからいっとき離れ、また群れのなかに復帰したとき、その個体がなにかあたらしい情報を群れにもちこんでくる。その情報によって、群れが興奮する。このことが重要だったのである。

群れの最小単位というのが、つまり「つがい」ということだ。

相手の体を触ることで、自我における身体の情報を更新する。ひらたくいえば、興味津々で興奮するわけだ。あたらしい経験をして、生きてる気がわいてくる、ともいえる。性幻想が、現実の身体にであって、補強されたり訂正されたりするわけだ。