性的半幻論 その五

『その土曜日、7時58分』の冒頭でフィリップ・シーモア・ホフマンが後背位で妻をファックしているのを、シドニー・ルメットはわりと長く撮っていて、私はこれを夫と妻がうまくいっていないことの表現なのだろうなあと思いながら眺めていた。正常位では夫婦のセックスがうまくいかなかったらしき別のシーンもある。妻は夫の弟と夫に内緒で週一でセックスしている。

本当に性幻想というのは多岐にわたっているものなのだろうかと思うのである。キリスト教会が特定の体位を正常位と定めたのも、それほどでたらめなことだとも思えない。

やたらにフェラチオしたがる女って、結局男の顔を見たくないってことなんじゃないかしら。あと、男の挿入をなるべく先延ばしにしたいとか。

人体そのものは遺伝子が勝手につくるもので、人工の表現ではない。これを表現としてすすんで錯覚することで性幻想は成立する。自我もまた自我幻想であって、しかし自分の体全体を離れて客観的に見ることはできないので(だからかえって臨死体験の需要があるのである)(そして鏡にたいする人類の不思議な感情というものもある)、自我幻想を他人が笑ってはいけないのである。他人がかかえる性幻想は、しばしば笑い話である。しかし個人が胸に秘めている自我幻想は、良心の自由というかたちで、日本の憲法も、各国民のそれをプロテクトしている。

自我幻想が先にあったのか、性幻想が先だったのか、よくわからないが、自我がめばえない乳幼児の段階で、ほかの個体にセックスをはたらくことはないようである。

なにかの統計を読んでいて驚いたことがあるのだが、五歳で自殺した例があるそうである(性別はわからなかった)。自殺ができるくらいなら、セックスもできるだろうなと思うのである。この場合のセックスとは、自己と他者を区別して、他者の性器と自己の性器をこすりあわせようと考えて実行すること、であるけれども。