イーストウッドは陰湿である

イーストウッドを好きだったり褒めたりするのはかまわないのだが、イーストウッド作品が陰湿なことに言及せずにやたら褒める人は、はっきりいって気持ちが悪い。

かつて小谷野さんは、蓮實重彦ほかの映画の好みを「暴力」であると看做したが、微妙に違うと思う。あのへんの人たちの好みは「既存の価値観への反抗をこっそりとすること」あたりにあるのではないか。『グラン・トリノ』で、神父を「仲間」にするのなんかも、あれは、神父の権威をひきずりおろして、なおかつそのことを神父自身に認めさせている点で、じつに「陰湿」である。

つまり、既存権力をぶったおしてしまったら、それはそれでダメなのである。自分も「父親」と同業、あるいは出世して父と並びたいから。しかし、父殺しの欲望だけは、表現として残しておきたい。イーストウッドの映画には、その葛藤がよくでていて、父親をうっとおしく思う観客にうけるのだ。

これは露骨に精神分析の対象だろう。イーストウッドを褒める人は、だいたい父親に劣等感をもっているはずである。私の父はダメ父だったので、私はイーストウッドの映画を巧いとはおもうけれども、ちっともアイデンティファイしない。

チェンジリング』だって、ソンドラ・ロックのことを考えると、けっこう意味深だぜ、と思うのである。あの犯人がアンジェリーナ・ジョリーの子供を殺したかどうか、明示しなかったのなんか、ようするに自分のしたこと(ロックとさんざんつきあって捨てた)を直視したくないってことだろ…。