と学会は、身内がトンデモだったことを認めるべきか

http://www.cml-office.org/archive/?logid=376
トンデモの質が違うから、と学会は唐沢問題を無視してもいいと思う。と学会には詳しくないのだが、その著述家の一部作品に限らず、そのありようがおかしいという報告を、と学会がいままでしたことがないのなら、身内だからってやる必要はない。
 唐沢俊一については、だいたいわかったから、その私の理解を、唐沢俊一に認めさせようとか、唐沢を反省させようとかは思わない。無理だ
 リンク先の議論は、たとえの作り方が変である。トンデモ本というのは、ふつうは盗用本でもなければ、単純なガセ本でもなければ、パクリ本でもないだろう。多くは誇大妄想、陰謀論のたぐいで、無邪気なものは笑えるけれども、陰湿なものにたいしてはシリアスに論評するしかできない。
 ごく単純な話として、一般の読者に対して唐沢俊一を笑ってみせるというのは、そうとう困難なのだ。
 なぜ人は話をするかというと、好きだからか、義務だからか、イデオロギーに捕われているからかのどれかだろう。あまりに多くの人に共有されているイデオロギーは笑うことができるが、個人的な観念を笑うのは難しい。観念をもたない個人はいないし、唐沢のマイナー趣味は、わりに共有しない人がいないでもない観念だから。
 他人が書いたトンデモ本は、なぜを問うことなく笑うことができるが、身内のガセやパクリを指摘して、なぜを問うことだけをしないというのは、身内のつきあいとして変だろう。他人から変だと思われることがあっても、身内同士が変だと思うことはない。というより、身内同士が変だと思いあうようになったら、その関係は他人であるということだ。