『天皇論』

冒頭。
 プロレスの開催に国歌斉唱があって、それに作者が起立もしなければ歌いもしなかった話から始まっていて、しかし君が代を歌うことで観戦する観客に一体感が生まれるという効用を発見するという展開になっている。
 さらに君が代の君がべつに天皇に限らないのだという話になっていって、にわかに信じがたいのだが、江戸時代の庶民は君が代を歌えた(節は適当につけたのだとしても)のだとか…。
 ユーチューブでいくつか国歌を聞いたが、思った以上に英米の国歌が似ていて、これは意外だった。アメリカ国歌なんてフランス国歌に似てるくらいでちょうどいいと思えるのだが。
 国歌は国旗と同じく、国家のアイデンティティでしかない。国家のアイデンティティが国旗しかなかったら、目の見えない人は困るだろうし、国歌しかなかったら耳の聴こえない人が困る。それだけのことだろう。
 君が代「だから」素晴らしいというは倒錯した話だろう。歌詞は原典のとおりではないし、はじめにつけられたフェントンの曲は撤回されている。君主制の国で王が、民主制の国で民が、アニソンの方が国歌にふさわしいと思ったら、それが国歌に、なる。イギリスとリヒテンシュタインフィンランドエストニアの国歌はメロディが同じらしいし。国歌にさだめられた曲が、自分も好きだ。それなら、ああよかったですね、という話でしかない。
 小林のなかではアイデンティティという言葉に、「唯一性」というニュアンスが包含されているように思うのだ。でもそれは勘違いでしかないだろう。同一性は、どちらかというと唯一性と対立する観念であって、国旗や国歌なんて取り決めの問題でしかない。小林の発想の基底には、アイデンティティを求める心は個人のものという戦後民主主義がよこたわっているのではないか。