パクリとカンニング

唐沢問題にあまり関心のない職場の同僚に唐沢問題を説明していて、はっと気づいた。

これ、パクリというよりカンニングなんじゃないだろうか?

私のニュアンスとしては、パクリというのはもっと能動的なものだ。パクりたい対象の本質や表現を理解した上で、自分のテイストに置き換えることで成り立つ。フライシャーのスーパーマンのロボットを宮崎駿がルパンやラピュタのロボットに採用したように。隠し砦の三悪人をルーカスがスターウォーズにアレンジしたように。

唐沢のは、パクリじゃなくてカンニングだろう。自分がなにをいいたいのか詰めないまま、自分の文脈と必ずしも合致しない他人のテキストをコピペしたり、不適当な情報を素材にしたりして文章を構成していくから、論理がこまかいところで噛み合わなくなっていく。『新・UFO入門』冒頭のタモリの話なんか、まったくそう。UFOは客観的な科学の問題ではなく主観的な信念の問題なんだということを唐沢は主張したいのに、多くの人はもともとUFOは科学の問題などと思っていないから、唐沢が文章で表現しようとしている対比にピンとこないまま読者は素通りしてしまう。思いつきを並べるだけで、読者を説得するように外堀を埋める作業を、唐沢はしない、というかできない。

テーマにそって文章を展開するなら、冒頭はふつうに矢追の番組を主題にすればよかった。タモリもパロディにしてるくらい有名だったとか、タモリの話は脇で触れるくらいがよかったのだ(当時も今も、ボイスオーバーの吹き替えはなくはないが少数派なので、タモリの印象に残ったのだろう、とか)。結局矢追の番組は熱弁する外人しか見るべきものはなかったけど、実はこれ、UFO問題の本質だったりするんですよ、とか、そういう風にまとめればよほどすっきりするのだ。

文脈を構成する能力がないから、話題の豊富さで読者を圧倒しようとする。トトロジーとか書く程度の教養で。やっぱりパクリじゃないよ、カンニングだ。