テキストと人間と個性

http://www13.atwiki.jp/tondemo/pages/17.htmlにおいて
大森氏が、

手元にコピーし、
メモしておいた漫棚通信氏のサイトの文章を、
原稿執筆時、当方のケアレスで、ほぼそのままの形のものをペーストしてしまい、

という箇所になにもコメントしないのが意外なのだ。私はここがいちばん変だと思った。他人の文章を、たたき台の目的としてであっても、自分のパソコンのデスクトップに開いておくことは、著述家として不名誉なことだと思うのだが、それは素人である私の思い込みなのだろうか。

もちろん、ブラウザで見ることまで非難はしないが、ブラウザで知った情報をファイル保存でもなく、ブックマークでもなく、メモ帳にコピペして残すというのはどうかと思う。だから「手元にコピーし、メモしておいた」という言い回しは、絶妙なのだ。アナログ上でそうしたように聞こえなくもないから。しかし「ペーストしてしまい」と続けることで、唐沢は、好意的に受け取られうる可能性をみずから潰してしまう。

あまりにも世間の論理とかみ合ってなくて不安になってくる。まずパソコンで原稿を作成していること、他人の文章を資料としてネットからコピペして参考にしていること、うっかりペーストしたまま削除するのを忘れて出版社に引き渡したこと、これらのことを普通の文章で述べるべきだろう。なぜこのていどの事態をのべるだけなのにあんな奇妙な悪文になってしまうのだろう。

こういうの、ほかの著作家はどうしているのだろう。コピペを書き換えたりして著作をつくる人って、わりといるもんなんだろうか?

ただ、私は漫棚通信さんのブログだけを見て、原稿を書いたのではない。資料は、ちやんと手元にあります。http://www13.atwiki.jp/tondemo/pages/15.html

この場合、一般の読者は「手元」と聞いて、唐沢の本棚や机上を想像すると私は思うのだ、いいかえれば、アナログな情報として手元においておくと判断するのが普通だろう。しかし、この「手元」というのは、たぶんパソコンのなかのファイルのことなんだろう。「原稿」というのも、文脈上、一般読者は「原稿の、盗作の疑惑を持たれている部分」のことを想像するのだとおもうけれども、ここもたぶん唐沢は「原稿全体」のこととして「原稿」の語を使用している。この本全体は漫棚通信だけの引用でできているわけではないことは、さっき立ち読みしたばかりの私が保証する。

要するに、一般読者にも先入観があり、唐沢にもちがった先入観がある。一般読者の先入観とは「著述家というのは、考えることが楽しいのだから、アナログな情報をわざわざコピーするなんて面倒なことはしないはず」というもの。

これくらいの文章、わざわざコピペして文章を改竄しなくても、普通に読んでから自分の文章で書けばいいだけのことじゃんhttp://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20081007

町山さんのように思うのが普通の感覚だろう。しかし、こうまで改変文章術にこだわるところを見ると、他人の文章を読んで自分で考えることに(1)極度の不安があるか、あるいはそのことが(2)アンフェアであると思っているのではないか。たぶん(1)なんだろうと思うけれど…。

学生がレポートをコピペで作成するのと似て非なる問題があると思うのだ。個性を出すことを許されている、あるいは推奨されている場でなぜか萎縮する個人。そういう問題性が存在しているのではないか。

http://d.hatena.ne.jp/mailinglist/20081101/p3

「唐沢方式」として私も盗作をしたことがあるが、確かにやっているあいだは楽しいのだ。取材する手間がはじめからキャンセルされて、取捨選択する楽しみだけが残されるわけだから。ほとんど選択しなかったけど。これは要するに「学生のレポート」の例。

唐沢の先入観とは、盗作をものすごく狭く捉えているのではないかということ。やたらに資料は複数駆使していると毎度うったえるあたりに、そういう疑いを抱いてしまうのだが。ひとつの文章を書くのに、ふたつ以上の資料を、ちゃんと表現を細かく変えて合体させれば、それはあらたな著作であると唐沢は勝手に思っているのではないか。