文士はもうからない

モルキュラーと儲からないとでは駄洒落にならないか…。

私は作家がパクることに不快感があったが、この感覚は新しいものなのかもしれない。1970年代に戦後生まれが社会に出るようになって、文士的なありようが新人たちに重荷に思えてきた、ということが言えるかもしれない。過去の文士には「俺のパクり方を見てくれ」という矜持があったのか(そんなわけないか)。でも啄木もカンニングやってたし(試験でだけど)、太宰は尊敬する芥川の引き写しのような習作を書いていたらしい。

文士だったら、小説も書くし随筆も草し評論も著すけど(ホントか? まあ小林秀雄吉田健一はそうだったが)、小説家は小説だけ書き、エッセイストはエッセイだけ書き、評論家は評論だけ書くという時代になったということか。そういえば最後の文士はいったい何人いるんだって筒井康隆がマスコミを揶揄していたっけ。マンガが産業として成熟しはじめたのも1970年代だ。