引用の範囲

著作権についていろいろ見ている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/上杉聰#.E5.B0.8F.E6.9E.97.E3.82.88.E3.81.97.E3.81.AE.E3.82.8A.E3.81.A8.E3.81.AE.E8.A8.B4.E8.A8.9F.E5.90.88.E6.88.A6

私は小林信者だったからマンガの内側からしかこの裁判を見ていなかったけれど、上杉聡が引用の資料を改竄したから、アウトになったのにすぎなかったのだね。小林の敗訴だろう。「敗者負担が原則の訴訟費用を、その249/250を小林側の負担とした」ってマンガに描いてあったっけ?

著作権には、所有権と人格権がある、と。唐沢俊一著作権に詳しいかどうかわからないけれど、著者名を伏せ、一字一句違わずに引き写し、地の文に充てたら、それはマズいというのは感覚的に分かっていただろうと思う。

加工した引用で論評したらマズい。これが小林上杉裁判の結論だ。表現を加工し、情報も歪めた内容を、自己の表現とするのは、これは何と判断するべきなのだろう。盗用は盗用なんだけど、客観的には盗んでない。ガセ。ガセはそうなんだが、別に読者を意図的に騙そうとしているわけではないのだ。ガセとも言い切れない。

こういう「模造品作り」は、著作人格権の侵害なのだろうか。他人の著作一点の「パチもん」を作ったら、一般人にもそれがマズいことは、想像がつく。しかし唐沢俊一の場合は入り組んでいるのだ。『トンデモ一行知識の世界』は400個も間違いがある、のではなくて、400件も改悪して仕立てた労作なのかもしれない。

これは議論の余地がないと思うが、唐沢俊一は知識の正確さへの配慮を欠いている。『アシモフの雑学コレクション』の「驚く楽しみ」で星新一は「事実」という言葉を丁寧に排除している(「データ」という表現は一回使用している)。「ISAAC ASIMOV'S BOOK OF FACTS」というタイトルの本の翻訳なのに。対して唐沢はわりと無造作に「事実」という言葉を使う。たぶん自分の外側のどこかに事実はあって、科学者とか学者がそれを管理しているとでも思っているのだろう。

好意的にみれば『一行知識』にも『新・UFO』にも『仕事術』にも、主張はあるわけだ。それぞれ「一行知識には表現のテクが必要だ」「ホラ話的ハイストレンジネスこそUFO話の本質だ」「いろいろ知って、いろいろ話そう、そのコネを仕事につなげよう」。これらの主張はいちおう借り物ではない様子だ。しかしそのための論述が毎回ボロボロなのだが、なにしろ読者を説得することの優先順位が低い書き手だから…。