「粘着されたくない」

なにも「なにも語らなければよい」のではなくて、コメント欄をとじておけばいいだけのこと。何かをいいたい人がいて、リスクヘッジもしたい? メールで特定人に感想を送ればいいではないか。メールの内容を相手に言いふらされて、その内容に論評が加わって、それに傷ついたら、まず言いふらした者に責任がある(通信の秘密って知ってるか?)。

粘着も何も、じゃあ漱石なんかは死後一世紀近くにわたって他人から粘着されているわけだが、こういうことはどう考えているのだろう。他人が何かを考えるのは、その人の思想の自由だというのに。

小学生のころ、手紙を出すマナーを習得する授業があって、しかし生徒は誰も手紙をだすモチベーションがなくて、親類や友人(つまり生徒同士)へ手紙を送ろうとするので教師が嘆いたことがある。しかし、これは教師のほうが間違っていた、あるいは、現実の観察が足りなかったように思う。

ま、「何かいいたい人」は孤独でしかもオカシイというだけの話。「まともな人」は、もっと多数存在して「何かいう人」を取り巻いている、あるいは気にもしていない。それだけの話だなあ。課金すればいいんだよ。好意的な人だけが寄ってくる。意見したがる気ちがいの狂気も濃縮されるけど。