負の教養主義?

単に民主主義だから権威を認めないというだけじゃないのかしらん。とはいえこの「民主主義」にもからくりがある。

 宗教の権威主義をみとめる集団は、神に関する民主主義に支配されていると考えてもいい。独裁者の権威主義を認めるファシズム集団は、独裁者が抱く思想に関しての民主主義を奉じているのだとも解釈しうる。だから仲間同士は居心地よく、そして索敵にも長けているのだろう。サブカルチャー教養主義も、「民主主義」の対象が拡大したにすぎない。

 中学生のころの私はポップスに興味がなく、山下達郎というのも、JRのCMで歌っている一歌手にすぎなかったが、その私の「浅い認識」をクラスメートが嗤ったことを思い出した。山下は七色の声の持ち主だぞ、とかなんとか、そういう受け売りくさいことを言ってこちらを馬鹿にしたのだ。そんなの知るかというのである。私はそのころから、マスコミの表現を受け売りするような奴は嫌いだったから、そういう奴が愛好する山下なんて、なおさらますます聴かないのであった(大学生の頃、ひとつきほど夢中になって聴いた)。この場合は、民主主義は敵の手中にあったというべきだろう。

 人間の心は、知情意がそれぞれに分かれているから、心地いいものが(情)、偉いものであってほしい(意)のだろう。私なんかは、なにが偉いかどうかなんてまったく顧慮することなく、楽しいものを勝手に楽しむばかりである。

 私は中学生の頃、バーンスタイン指揮のマーラー全集を買ってもらって、数えきれないほどくりかえし聞き込んだので、いまでもそれぞれの交響曲の展開をそらでおぼえていて、90分のあいだ歌えてしまったりする(戦中派にとっての軍歌のようなものか)。しかしベートーベンやモーツァルトにはまったく興味がない。マーラーだけが好きなのである。ブルックナーにもそれほど惹かれない。

 なにが偉いかどうかにこだわるやつは、感覚が無制限に奔流するあの快感を、意志という枠組みにむりやりおしこめるケチ臭さを感じて私は嫌いなのである。

 このへんは、ようするに、宗教体験、のようなものなのだろう。私にはバーンスタインのあの癖のある演奏とともに日々を過ごした経験があるから、それを基準にして物事をながめることができる。演奏という、音響という、非在のものが、私という層において、面において、実在のものになっている。拠り所というのは、他人には理解しがたいものだろう。

 理解しがたいものを理解させようとしてあがいているのだもの、「「おもしろいこと」の大半を知らないまま死んでいくことに、少しは焦ろう。」なんて、しらずしらずのうちに口調が恫喝じみたものになってしまうのも仕方のないことだわな。せいぜいミームを放出しなはれ。