『ひとを愛することができない』

読んでおいてよかった。私の父も、中島の父ほどではないがこういうところがあったし、私の母も、中島の母ほどではないがこういうところがあった(学習院大学への憧れとか)。普通に社会となじみ、普通に家族となじむことができない人間は、わりとざらにいる。というよりも、そういう人間たちの方が実際には多いから、規範としての「普通の家族」というイメージが流通するのではないか。

 第六章の恋愛遍歴の話は眉唾だが面白い。まるきり宮台真司の先蹤というか、不良東大生の歴史など漱石の昔からあったのだろうが…。

 もっと単純に、生物学的に考えてみたらどうだろう。目のまえの個体が何を考えていれば、自分にとってもっとも安全か。それは彼ないし彼女が自分を愛していることである。これが最上の安全状態である。他者の中身が「自分」であれば、なにも他者を不安に思う必要がない。中島のいう「健全なドンファン」は、他者を節度をもって崇拝者にさせる論理の使い手であるだろう。いまは社会が平和で安全になっているから、この論理は過剰適応を招いて悲劇を呼ぶこともあると考えるべきではないか(「孤独城」にたてこもることは次善の策でしかない)。ドンファンが仮に実在したにしろ、カサノバにしろ、ウェルテルを書いたゲーテにしろ、彼らの時代は戦争を当然のものとして社会に存在させていた。

 中島の父の世代、さらにその父の世代にはリアルなものとしてあった「家」は「戦争」と背中合わせに存在していた。戦争に負けた上に軍備を禁じられて、男たちは語るべき言葉を失った(三島由紀夫!)。過酷な環境としてあった「家」(これに中島の母は苦しめられた)にたいするアンチテーゼとしての「恋愛」(これを中島の母は夫に求めたが報われなかった)。「戦争」が否定されたいまは「平和」と「恋愛」と「家族」と「社会」は、どのような関係を切りむすんでいるのだろう。