トライブと恋愛

アバター』でも、大佐にとどめをさすのはヒロインのほうで、キャメロンは一貫している。やたらにヒロインが強いキャメロン映画。このへんはどうも不思議なキャメロンの癖だ。シガニー・ウィーバーがエイリアン・クイーンと戦うことにはそう思うこともなかったのだが、『T2』『タイタニック』あたりからさすがに気になったのだ。

 ちょっと変なやつだとおもうのだ、キャメロンって。主人公がヒロインを奪い合う男がでてこない。『アバター』にはそれらしい「主人公がくる前に次期族長を嘱されていた男」がでてくるのだが、早々に主人公と和解して戦争で死んでしまう。魅力的なライバルを造型する気がそもそもないようなのだ。

 「仲間たち」を描くのは、キャメロンはあいかわらずうまい。今回は駆け足気味だったが、主人公たちが地球人側へ内通者として残すヒゲの男など、あまり出番もないのに雰囲気がよくでていた。

 『アバター』はずいぶん極端な設定になっていて、地球側の男はだいたい悪い。大佐など「出来の悪い息子を邪険に扱う悪い父」そのもので、ウィーバー演じる博士は「厳しいが優しくもある母」なのだ。ナヴィの大木を撃ち落とすパイロットを、まるでキャッチボールで我が子の送球を褒める父親のように、いいぞと褒める大佐のシーンが印象深い。

 美麗なCGによる異世界をながめていて思ったのだが、やはり生きる意味というのは倒錯であって、生きていることが生物の存在意義なのだ。生存するというのは自己を対象におしつけることでしかない。恋愛なども、自己の個性を他の個体におしこめることに意義があるのだろうな。

 部族、トライブにかんする描写が、CGや3Dをプレゼンする都合上もあってか、けっこう厚かったのが面白かった。対幻想と共同幻想ではないが、恋愛と部族の一体感が並べて語られるのだ。