わかる、わからない

映画は基本的に孤独な娯楽で小説に近いが、演劇は体の動きと言語の応答が提示されていれば成り立つ感じがある。理解は二の次という気がするのだ。演劇の間は、役者と観客が協同してつくりあげるが、映画は編集によってそれを固定してしまう。

わかるとか理解するというのは結局のところ小説的に、散文的に、個人的に、「雑然とした状況」へ一定の筋を通すだけのことかもしれない。小説で「雑然とした状況」を表現しようとすると、たんに混乱した印象を読者に与えて終わるだけになってしまうが、おなじことを舞台にかけると「なんだかよくわからないがおもしろい」ということになる。