主観は先験的に与えられているように感じる

がしかし、それを説明することはできない。できないからいろいろな齟齬が生じて、演劇の材料になる。映像もまたある人の主観を十全に表現することなどできないが(できないよ)、「偏見」というテクによって表現されたように観客に錯覚させるのだ。結局のところ、役の人物がなにを考えていたのか、演劇でも映画でも、観客は知ることができない。だからこそ表現として成立しているのだといえるが。