「大学へ行くと馬鹿になる」の意味

いちばんむずかしい演技は、「考える演技」だろう。考えることも行為なのに、この行為だけ「似せもの」として表現するのがむずかしい。食べるふり寝るふりなどはまあできる。歩くふりというのは、あんまり意味がなくて舞台でも歩くしかない。しかし、本当に考えることと、考えるふりとの違いは、区別がつかない。まさに「下手の考え休むに似たり」だ。

私の場合は考えているときはだいたい放心状態になっている。生きたまま死んでいるようなものだ。モニタとキーボードの前で、じっと固まっていて、おもむろに動き出して文章を入力する。

若いころの養老孟司が隣人のばあさんに「大学へ行くと馬鹿になるよ」と忠告された話は養老が好んで何回も披露している。内面が知識で充実したところで客観的には「デクノボー」(宮沢賢治…)になってしまうのも、たしかな「事実」ではある。

官僚や議員のコメントに中身がともなわないのも、たんに彼ら本人の技術的な至らなさだけからくるのではないだろう。言葉というものとヒトとの関係のある側面がそういう状況に露呈するだけなのかもしれないのだ。