ゲイ映画『ダークナイト』

どうせだれかが書いているだろうと思ったが私の浅い検索では見当たらなかったので書いておく。


傷をかかえてうじうじしていたウェイン青年は海外からゴッサムシティに仮装プレイをもちこんだ。これが受けてみなが仮装プレイに走るようになって、大量に発生した変態たちを闇の世界に閉じ込める仕分け作業に、ウェインは倦み飽きていた。『ダークナイト』はここからはじまる。


へんなプレイの趣味をもたないデントの登場に、ウェインは新鮮さを感じる。しかし、裏の顔くらい持ってるだろうとして、当初はウェインはデントを怪しむのである。しかし調査の結果デントはストレートだった。ウェインはデントに騎士の座を禅譲しようかなどと勝手なことを思う。


やめられるものならやめてもよかったゲイの道を、しかしやめられないのだと納得する物語が『ダークナイト』の物語なのだ。ウェインの半端な禅譲への思いを木っ端みじんに粉砕する「ハードコアのゲイ」がジョーカーなわけ。はじめからゲイの位階ではジョーカーのほうがウェインより上なのである。ウェインはバットマンに仮装して行動していると自己認識しているが、ジョーカーにとって仮装だのなんだのという認識はもともと余計なものにすぎなかった。だからドーランはつねに剥げかかっているのだ。ジョーカーを気取っているのではなく、このくらいやっとけば俺が変だということがお前らにも明瞭だろうという意味で化粧しているのだ。強固な思想を持った者は、他人にやさしいのである。


一般観客がいちばんけげんに思うのは、べつにいまでもセックスしているわけでもないのに、かつてつきあっていたからといってレイチェルと結婚できると思っているウェインの傲慢さだろう。ここは説明するほど観客は混乱するので、あっさり処理している。レイチェルが殺されることで、もう心置きなくジョーカーを殺すことができる、というのが普通のアクション映画のセオリーだが、『ダークナイト』ではレイチェルの爆殺は、ウェインがもう二度とストレートな世界へもどってこれないことを示す「深い傷」としてしか扱われないのだ。


最初から思想的には最強だったジョーカーが、現実の権力をも握ってしまってからは急速に魅力が色あせるのも、ゲイであることが一般社会にはなんの価値ももたらさないことの苦い認識の反映である。ジョーカーやバットマンがやっていることは、傷ついた人間が余計なことに意味付けして、自分の生にも意味があると錯覚しているだけの行為なのだから。普通に生きている人は、傷ついていない、あるいは傷を解釈する趣味を持たないから、「解釈する人間の誘惑」はただ面倒な、うっとおしいだけのものなのだ。これがフェリーのシーンを省略できなかった所以である。


あとはゲイにとっておいしい「ゲイの痴話喧嘩」のシーンがご褒美として待っている。しかも「ジョーカー×ウェイン」「デント×ウェイン」の二連発だ。もともとウェインより気合いの入ったジョーカーに口で勝てるわけがなく、あらたに目覚めたデントにもウェインは負けそうだ。だから心中して、しかしウェインは生き残ったわけである。