できあいの教えと、ほかでもない自分が新たにする妄想

権力にさからって犬死にした無茶な男が、じつは本当に神からの使いで、自分(無茶な男について考えるこの「私」のこと)の罪さえ購って死んだと考えることは、かなり新しい。神がいて、自分が生まれるはるか前から、自分が属する民族と契約を交わしていて、自分もそれを守らなければならず、守って死んだら死後には永遠の平安が約束されると考えるよりも、はるかに新しい。


この関係を妄想することこそがキリスト教の肝なのだろう。この関係を発見せずにキリスト教をあれこれいっても仕方ない。民族主義を抑える数少ない技法なのではないか。恋愛だって、いや、そもそも「自分」という妄想だって、発見しなければはじまらないのだ。恋愛はわがままを矯めるための技法だし、健康法も、自己破壊から自己をまもるための技法である。私は虫歯の痛みって、あはは、知らないんだよね。