『蜂蜜パイ』の甘すぎる嘘

神の子どもたちはみな踊る (新潮文庫)

神の子どもたちはみな踊る (新潮文庫)

『蜂蜜パイ』という短編が興味深い。

実家にたいする懸隔感を感じていた主人公は大学生になって親元を離れ、親友とその彼女との三角関係を疑似家族のように形成して、そこに安住する。もちろん、主人公は友人の彼女に恋をしているのだが、それを公然とすることへのリアリティを感じ取れずにいて、おめおめと「親友」に「彼女」を奪われるのだ。大学卒業後に実家と義絶して、東京で小説家としてなんとか生計を立てられるようになった主人公。しかし「親友」は、それが面白くないので(ここは評者の「解釈」なのだが)、お古の女房を主人公に押し付ける。いつも関係を主導するのは「親友」のほうで、主人公は状況を受容するだけなのだが、「彼女」を妻として認めることだけはなかなか容れられない。怯えがあるのだ。「親友」と「彼女」との間にできた女児が、主人公と彼女とのセックスの場に闖入する。女児の夢にあらわれる「地震のおじさん」が誘導したのだ。主人公の故郷が阪神大震災によって被害を受けて、それをテレビで瞥見した主人公は故郷との結びつきが完全に失われていたことを感じ、それまでに培った物語づくりの才覚でもって、「彼女」とその娘との新しい家族関係を構築することを決意する。以上があらすじ。

そして、これは村上春樹にしては、作り話が下手だなあと思うのだ。主人公の淳平は、あきらかに自殺するべき人格として造型され、小説はドライブされている(漱石の「こころ」のパロディのように)。それが結末ちかくなって、村上は物語の目指す方向からいきなり急ハンドルを切るのだ。もちろんこの操作は自覚的なものであって、直前に小夜子が別件について告白したように、これは「ズル」なのだ。淳平は、あまり似ていないが、要するに「ありえたかもしれない村上春樹」、「旧来の文壇のシステムに妥協して生きるもうひとりの村上春樹」であって、それを造型することで否定してみせたわけである。

ぼく自身の中には非ぼくがいます(「かえるくん、東京を救う」太字は原文では傍点)