かしこまった村上春樹論がどうしてもおかしくなるのは

やはり村上の小説が「泥遊び」のようなものだからだろう。泥遊びは人間の精神に寄与するものだが、しかし他人に説明するようなものではない。通過して、振り返ってあれこれ思うことしかできない。自分の中で。泥遊びを社会的に位置付けようというのが、そもそも幼児的全能感に裏打ちされた1980年代的スノビズムだったのだ。後世の文学史は1980年代からの「村上春樹論失敗の系譜」を綴るだろう。