場所と心象風景

現実の人間は場所に拘束されるけれど、心にドメインはなかったりする。文章においてあくまで物理現実に忠実に書くと、それはどうしても報告書になってしまう。我を忘れる、あるいは他人の目があることを忘れる瞬間を、創作者は体験しなければならない。その瞬間に見える風景は現実の場所に似ていたり、似ていなかったりする。百罒が父の声を聞いた土手など、なぜ私は「知っている」のだろうと不思議に思う。まあ、日下武史の朗読の力も与っていたであろうけれど。